「すべての天使は、怖しい」
「すべての天使は、怖しい」
ライナーマリア・リルケの『天使の悲歌』で、何度も出てくるこの詩を、
オイリュトミーで作品化した頃、
すでにこの詩の意味を自分なりに、そう自分自身の内面生活で体験していました。
打ち震えるような心の深淵を、人生で体験することは、そうありません。
いえ何度もの体験は、記憶の奥底に封じ込めてしまっているのだと思います。
しかし皮肉にも、どん底の闇体験によって、見出し出会う“光”があるのです。
その“光”に出会ったのは、後にも先にもその時だけでした。
しかし、その後ずっと私自身の内側に“ある”のです。
もしあの苦しみの日々がなかったら、この詩の意味を理解し得ず、
芸術の深みから創造することはできなかったでしょう。
芸術家が、対象、オイリュトミーの場合は自分自身の身体、心身一如、に生命を
注ぎつつ創造していくであろうことに、
己が魂の深淵にまで降りていくことを運命が羅針盤のように働いているのなら、
さらばそうあろう。
真の芸術の創造行為が、神の分け御霊が行うことを信じてやまない。
内面に向き合うことの怖ろしさを、内的身体が受け止めていく。
そうして一歩一歩と鍛えられ、習慣化にまでなっていったのです。
「あなたがたが苦しみにあるとき、喜んでいなさい」というキリストの言葉は、
真理として我が道の光になって、生命を生きているのです。
「私は真理であり、道であり、光である」(イエスキリスト)
キリストの光は、一人一人の生命体、エーテル体に生きているのです。
愛と光と感謝をこめて
♡
楽々 画
「キリストの光と愛、そして復活」