オイリュトミーの極意
創造主との対話で、今は本を書くことに集中しています。ほとんどこのブログをまとめているようなラフなものですが、このブログそのものが、その時折に降ってきた言葉を書き綴っているので、まとまって読めるのもいいのかもしれません。
『レインボーDUOワーク』の本は、来月中旬にはAmazonとジュンク堂書店から出版されます。今は二冊目を書き出しています。
これについては、なぜ書くのかわからないまま書いていますと、驚いたことに、私自身が2002年にオイリュトミー卒業公演で作品化した言葉が降りてきたのです。
もう20年もなってのことで、本を書くことで降ってきたのでした。この言葉を思い出させるためだったのかと思うのです。
笠井先生が、公演作品を創作している時に私たちに仰った言葉を忘れませんでした。
「卒業公演で自分が初めて創作したものは、その後の自分自身の方向を示すものとなる」
まさにその通りでした。私が創作した言葉のオイリュトミーは、シュタイナーの講義録『黄金伝説(神殿伝説)』の中の文章でした。
以下、R.シュタイナー講義録『神殿伝説』「マニ教」より
何を通して、生命は形態に変化するのでしょうか。生命が抵抗するものを見出すことによってです。生命はいちどきにひとつの形態をとって現れるのではありません。たとえば百合の中で生命がどの様に形態から形態に変容していくのか、、、
生命自身は形態がなく、自分自身を知覚しながら生きることはできません。たとえば、百合の生命は最初の百合の中にあり、続いて第二の、そして第三、第四、第五の百合の中にあります。決められた形態の中に現れる同じ生命が、あらゆる所で形をなして広がっていきます。それが特定の形態の中に現れるということは、溢れ出る生命の抑制です。もしも生命が抑制されず、あらゆる方向に向かって流れていくならば、形態は与えられないでしょう。一箇所に留まりながらあたかも束縛されているように見えるもの、まさにそのようなものからのみ、大宇宙の中に形態が現れるのです。
、、、、、
みずからの魂の光に導かれ、外的形態を克服し、それを霊に変容する、、、、、
この内容を、男の人のオイリュトミー衣装を着て、動きました。
その後の舞台作品では、シュタイナーの『薔薇の杯』、リルケの「ドゥイノの悲歌』、韓国語の詩、雨宮テイコの詩、宮沢賢治、、、などなど、
最初の作品が象徴としてあったようなものばかりでした。
また、音楽作品についても、誰も着目しなかった、セヴラックの音楽を作品化しました。
そうして、その後、バロックヴァイオリンの音色に惹かれて、当時まだ誰もオイリュトミーにしていなかったビーバーの『ロザリオ・ソナタ』や、チェンバロで古楽作品を舞うこと、また武久氏のジルバーマンピアノという、これまた稀有な音色の楽器でバッハを作品化してきました。
笠井先生の直観、洞察力は何か次元を超えたところから核心的なものとなって届いていたことを、これ以外にもたくさんありました。
そんなわけで、オイリュトミーの秘儀を、改めて認識しています。
これが私の魂の目的であることも、然もありなんという心持ちでいます。
私たちが生きているこの瞬間瞬間に、”今ここ”の意識にあることは、
「新しい地球を創る」と以前書きましたが、
オイリュトミーは、「生命そのものを生み出してる」ということです。
それが、先に掲げた言葉の意味です。
その深奥の意味であり、啓示を、
生きているうちに身体そのものの発露から生み出したいと、願います。
今生にあるのは、ずっと先々の種であるという見解です。
この内容は伝わらないと思いますが、ブログとして呟きましょう。
「未来の人間形成のためのオイリュトミー」この副題の意味するところの奥深さを、感得してもらえるオイリュトミーを、舞台で舞えるよう鍛錬していきます。
愛と光と感謝をこめて
♡