愛のインナーチャイルド革命 by NARI

自分と思っている自分が、本来の“私”から遠のいているとしたら、軌道修正します。レインボーDUOワークは、ネガティヴな部分に向き合い、ポジティブになる自分を育てます。

公演のお知らせ 『バッハ・コスモス』〜笑うバッハ、泣くバッハ、瞑想するバッハ〜

『バッハ・コスモス』〜笑うバッハ、泣くバッハ、瞑想するバッハ〜

ジルバーマン ピアノ演奏 武久源造

J.S.Bach 作曲 『適正律クラヴィーア曲集』(武久氏は平均律クラヴィーア曲集を本来の意味である適正律という表現に変えた) 全曲CD4枚 発売記念コンサート

 

一曲のみ、Nari Kim が舞う。

 

2019年11月1日(金) 18:00 開場 18:30  プレトーク 19:00 開演

上野公園内 旧東京音楽学校 奏楽堂

 

公演に寄せて

鍵盤楽器奏者 武久源造


あえて問おう。
およそ人は何のために音楽をするのか。
バッハの《適正律クラヴィーア曲集》ほどの作品を前にすると、こんな大上段な疑問
も、ごく自然に沸いてこようというものである。

思うに、この問いに十全に答えるためには、大我と小我という、いわば二重の自己意
識を引き合いに出さなければならないだろう。
大我の私は諸々の欲から離れ、無心に音楽を愛し、音楽と一体になって、ただ音楽の
みの要求に従おうとする。それさえできれば、後のことはどうなってもいいと思って
いる。
その私がバッハを弾く時、まずは、バッハの自筆譜や弟子の写本などを頼りに、バッ
ハが伝えようとした情報を、可能な限り収集する。バッハは300年後の異国人である
私にまでも、何事かを伝えようとしている。それを、あらゆる認知機能(思考、情動、
感覚、直感)を駆使して受け取る。楽譜上の記号と記号の間で凍っている音楽の命に
再び体温と血流を取り戻させたい。既知の名曲というレッテルの下で冷たく結晶化し
ようとしていた音符たちに、再び新鮮な空気を呼吸させたい。これが大我の私の唯一
の願いである。

一方、小我の私には諸々の種々雑多な願望がある。

例えば私は、バッハ音楽に対する新たな視点を、聴き手の皆さんと共に分かち合いた
いと願う。楽器の選択もその一つである。

ジルバーマン・ピアノが、バッハに対しても、また我々にとっても、どれほど大きな
新しい可能性を秘める楽器であるかということについては既に処処方々で十分強調し
てきたことであるが、ともかく一聴していただければ、そのことは直ちに理解してい
ただけるだろうと思う。
バッハが《適正律》の第1巻を作曲したのは、ほぼ1717年から1722年の間だと考えら
れるが、この時すでにバッハはバルトロメオ・クリストフォリが発明したピアノフォ
ルテの存在を知っていたはずである。その後の10年の間にバッハは、ゴットフリート・
ジルバーマンに協力してクリストフォリ・ピアノの改良版とも言うべき新しいピアノ
の開発に直接携わった。この経験から得たインスピレーションは、《適正律》第2巻
に色濃く反映していると、私は考える。

さらに演奏面について言うなら、基本的に私は18世紀の常識に従って演奏しようと試
みている。
例えばそれは、演奏者による即興的な装飾法の実践である。そこにはフェルマータ
装飾法も含まれる。フェルマータは、単に音楽の動きを止めるだけではなく、「良き
趣味」によって、そこに何らかの装飾音型を適宜自由に挿入することができたのであ
る。

音符の外的な価値と内的な価値の区別もまた、大きな問題である。一般的に、18世紀
の音楽家たちが重んじたこと、それは、およそ外的には同じ8分音符であっても内的
にはその音価は異なるということであった。つまり、その音符が置かれた場所によっ
て、また、曲の性格や表現される情緒によって、その長さは柔軟に変化させられねば
ならなかったのである。
こうして各声部を自由に歌わせ、個々の音符の長さを柔軟に変化させると、その結果
として、当然、各々の声部間にずれが生じ、縦の線は必ずしもそろわないということ
になる。特にバッハの対位法では、各声部の独立性と自由度が、他に抜きんでて高い。
我々はこの自由度を可能な限り生かした演奏を心がけなければならないであろう。こ
れによって生じる声部間の微妙で際どいずれこそは、18世紀において、高度な演奏の
証とみなされていたのである。この美意識は19世紀を経て、20世紀初等、ほぼ第一次
世界大戦前まで続いた。ところが、大戦後、美意識のパラダイムは大きく変わった。
いわゆる、即物主義の時代が始まったのである。そこでは、機械的な正確さとクリア
カットな一様さが持て囃され、「楽譜に忠実」というスローガンの下、演奏者の主観
性や即興性を忌避するピューリタン的な禁欲主義が、支配的な演奏美学にまで高めら
れたのである。この、バッハやモーツァルトショパンとは全く無縁の「現代的な」
美学によって、「古き良き」伝統はほぼ完全に一掃されてしまった。これにより、音
楽づくりから洗練された主観性は排除され、客観的、類型的な理解が求められるよう
になった。この音楽観は、一面では、バロック時代のそれに似ていた。だからこそ、
20世紀後半には、バロック音楽が空前のブームを巻き起こしたのであろう。しかし残
念ながら、こうしたブームの中で注目されたのは、バロック音楽、とりわけバッハ音
楽の片側だけでしかなかったのである。そしてこの傾向は、21世紀の今もなお根強く
続いている。

さて、バッハにも、大我としての人生と小我としての生活があったに違いないが、大
我としてのバッハについて言うならば、彼はあえて自分の時代から浮き上がることに
よって、あらゆる時代の心に訴えることのできる個性を手に入れたのであろう。具体
的には、ギリシア・ローマ以来の伝統的な古典修辞法と近代的な主観的感情表現、イ
タリア的な直截さとフランス人好みの婉曲表現、高次の宗教性と理知的合理性、…こ
れらの相矛盾する要素をバッハは一つの曲の中で、時には一つのフレーズの中でさえ
融合させた。こうして彼はより普遍的な音楽表現を目指したのである。
自己の限界を超え、また、他者の限界をも越えて行こうとする芸術家の姿を、我々は
バッハに見出すことができる。作曲の素材、主題や形式、様式などの可能性を徹底的
に追究し、作曲行為の純粋な本源性にまで近づこうとするバッハの姿勢は、続く世代
であるモーツァルトベートーヴェンに道を開いただけでなく、19世紀のほぼ全ての
作曲家にそれぞれ違った形で光明を与え、シェーンベルクヴェーベルンの模範とも
なり得たのである。

さて、バッハ音楽の迷宮に深く入っていく時、私が杖とするのは音楽修辞学である。
このいわば魔法の杖によって、バッハの音楽言語を理解する道が開けるのである。そ
れはバッハが、ある特定の音の形や音の身振りによって、どんな意味をイメージし得
たかということである。これを理解するには、我々は言語と音楽の共通の祖先である
原音楽を呼び覚まさねばならない。なぜなら音楽言語とは、この原音楽の上で、様々
なイメージが反射し、反応し合って産まれるものだからである。これを理解すること
によって、我々は、バッハの音楽を、我々の音楽として生まれ変わらせることが可能
になる。
およそ言語イメージと音のイメージは、互いに反射を繰り返しながら、作曲家と演奏
家の創造性において化学反応を起こす。それが演奏のプロセスであるが、その結果、
そのつど作品のイメージは聴き手の中で結晶化する。結晶はもうそれ以上変化しない、
ポテンシャル・エネルギー・ゼロの状態に近づく。それは生命の死に相当する。
しかし、音楽は死なない。聴き手の中に新たな要求が産まれ、エネルギーが補充され
る。更なる創造的演奏が試みられ、音楽は新しい系へと遷移する。生命の再生である。
この不断の創造活動こそが、音楽修辞学の要諦である。この原音楽的創造の愉悦にこ
そ、私が音楽をする理由と目的がある。

この公演では、さらにこの原音楽的創造を、体の動きを通して表現する。
キム・ナリとのコラヴォレーションがそれである。

「ひとりの人の胸の中には全人類の記憶が宿っている」とプラトンは言った。我々も
またこのプラトンの言葉を信じて、己の細胞に染み込んだ太古の記憶に分け入るなら
ば、そこにバッハに到る道を見出すことができる。少なくとも私は、己が体験から、
そう確信している。

 

 

 

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幸福を知らないで育つと

https://www.instagram.com/p/ByPDBXagMbe/

“Whispers of the woods” “森のささやき”F30 #abstractpainting #acril #canvas #painting #abstractart

 

大人になって、幸福な生活が始まると、そこから逃げ出すかのように

 

問題を起こしたり、その幸福を壊すような行動に走るという

 

パターンをみることがありますか?

 

幼少期から思春期にかけて、不安や恐怖に晒されて過ごしますと、

 

その状況がその人にとっての“安全”になるという「信念」を持ちます。

 

潜在意識の深いところでのネガティブな信念は、ネガティブな状況を引き起こし、

 

逆に、幸福な生活を手にしますと、それには居心地の悪さを“無意識”が感じるように

 

なります。

 

それは自分だけでなく、周りの人をも巻き込んでしまいます。

 

この“無意識”に対して、意識的になることで、

 

不幸を回避し、本来の自分らしさを取り戻すことができます。

 

自分らしくありながら、意識に及ばない無意識のうちに暴走する

 

インナーチャイルド、記憶の中の傷ついた自分と向き合うのです。

 

それができるのは、自分しかいません。

 

 

 

愛と光と感謝をこめて

 

 

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